北上川河口紀行(1)
2013年9月5日
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盛岡から河口(追波湾)まで行く。
盛岡市の南大橋あたり、太平洋まで188kmです。 前日までずっと雨だったので水が濁っています。 |
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たぶん、紫波町の紫波橋あたり。 | |
北上展勝地あたり。 和賀川が合流します。 |
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北上展勝地には北上夜曲の碑があります。 | |
夢工房 あこづ 看板につられて行ってみました。 コロッケ屋さんです。 岩手県奥州市前沢区生母字斎田58-1 (北上川の東側です) |
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平泉付近の北上川。 経塚山に「大」の文字が見えます。経塚山の後ろは束稲山(たばしね)です。 |
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JR山ノ目駅にあった案内看板。 概略は カスリン、アイオン台風の洪水により死者・行方不明573名 治水事業により175世帯が移転。と記載されています。 つまり遊水地整備のため8集落が移転したということです。 |
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一関遊水地 狐禅寺の狭窄部と言われる川幅が狭くなっているところの上流側で洪水の常習地であった。 |
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赤の印が昭和22年カスリン台風の時の水位です。 青の印は昭和23年アイオン台風の時の水位です。 2年続けて洪水になっています。 |
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北側から一関遊水地を見ます。 東北新幹線が見えます。 |
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一関市、千歳橋の上流部。遊水地になっています。 | |
千歳橋の下流部。 狐禅寺(こぜんじ)の狭窄部(地狭部)と言われる峡谷を形成しています。 川幅が狭くなります。 |
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狭窄部を旧川崎村へ進みます。所々カスリン、アイオン台風の水位表示があります。 | |
旧川崎村にあった河崎の柵跡。 前九年の役、源頼義と安倍貞任の戦いにおいて、貞任が兵四千人をここに集めた。 頼義は黄海の戦いにて大敗。 |
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砂鉄川と北上川の合流地点です。 橋は北上大橋です。 旧川崎村薄衣あたりです。 |
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道の駅 かわさき | |
旧藤沢町黄海(きのみ)あたりです。 | |
宮城県登米市(旧東和町)に入ります。 | |
たぶん錦桜橋(国道346号)、宮城県旧東和町です。 | |
平野部に出て川幅が広がります。 | |
旧東和町米谷(まいや)あたり、大きく蛇行しています。 | |
旧津山町、柳津大橋から上流側を見ます。 鴇波洗堰(ときなみあらいぜき)と脇谷洗堰を通って旧北上川に分流しています。 明治44年から昭和9年までの23年間、柳津-飯野川間を開削し、追波川を拡幅し、追波湾に 流す放水路としました。いやはやすごい工事です。 川の名前は新北上川(もしくは単に北上川)になります。 |
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北上大堰です。 1979年完成、上水道・工業用水・灌漑の他、追波湾からの海水遡上を抑える。 |
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飯野川(旧河北町)から下流寄りです。大河の雰囲気です。 別名、追波川とも言います。 (地図に記載されている追波川は新北上川から旧北上川に流れている小さい川です) ※飯野川は川の名前ではなく地名です。 |
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これが追波川です。旧北上川方面に流れています。 | |
北上川の河口。追波湾に注ぎます。 旧北上町の月浜あたりです。 対岸の長面地区の一部は津波(地震?)で沈下しました。 2005年4月1日に北上町及び対岸の河北町も石巻市と合併し新北上川河口、旧北上川も 石巻市となる。 合併前だと北上町の北上川河口、石巻市の北上川河口と表現して場所はわかったけど 合併後は石巻市の北上川河口と言っても追波湾側か石巻湾側か判らなくなる。 非常に紛らわしい。せめてニュース報道では新北上川、旧北上川と 新旧を付けて欲しいところである。 |
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対岸の長面地区、工事をやっていました。 | |
一応河口まで来ましたが、もう一つの河口(旧北上川の河口)に行かないと片手落ちです。次の日行ってみました。 |